「プレミアムシート」 4

 

「あっ!」
 いつもの口でのからかいだけと油断した静雄は動転した。
「てっ、手前、何すんだ…」
 思わず声が上擦りながら、それでも手を払いのけようとしたが

『愛してる』

 いきなり心から切なげに囁かれたセリフに静雄は金縛りになった。
 思わず目を上げると、大画面に映し出された幽の顔がまっすぐ静雄を見つめている。幽は少し悲しげに微笑み続けた。

『愛してる。
 ずっと…ずっと忘れようと思った。
 そうしなければ、離れていく君を祝福しなければと思った。
 押さえ込もうとしたんだ、この気持ちも。いけない…許されない事だって。

 でも、好きだ。どんなに自分を騙しても、目を背けても、君の事を払い除けられない。誰にも代わりなんか出来ない。
 許されなくていいんだ。罪は全部僕が背負うから。
 だから…君が欲しい』


 静雄は息を呑んだ。幽を弟として愛してる。それ以上の感情などない。ない筈だ。
 でも、世界中で自分みたいな者を愛してくれるのは幽しかいない。彼を恐れないのは幽だけだ。
 でも、幽はトップアイドルであり、美しい女性と出会う機会は山ほどある。
 幽に友人は少なく、昔からお兄ちゃん子だったが、いずれ普通の兄弟のように兄離れし、大事な女性と出会うだろう。
 その時は心から祝福してやろう。
 幽の幸せは自分の幸せだ。


 ―――ただ。

 ただ、無表情であっても雰囲気がどんなに曖昧でも、静雄も幽の一番傍にいた。彼の考えは苦もなく読める。
 それが静雄に告げる。
 このたった今告げられたセリフと同じまなざしを幽が時々、いやいつも秘めている事を。
 それを見ないようにしてきた。
 幽も何も言わなかった。
 でも、たった今、スクリーンごしに叩きつけられた気がした。
 まるで幽自身の本心として。
 静雄はそれに対して無防備だった。臨也に気を取られたせいで、神経を奪われた。全く無抵抗のまま。


 だから、臨也が静雄のを取り出し、口に含んだのも気づけなかった。生温かい快さが全身を貫く。

「あっ…はぁっ? なっ、何…」

 何しやがるという抗議も上擦って途切れた。慌てて見下ろすと、臨也の小悪魔のような視線とぶつかった。
 口を大きく開けて、一心に静雄のものを頬張っている。
 静雄が絶句して固まると、その反応に満足したのか口を離し、チロチロと舌で先端を嬲る。
 その刺激に静雄の身体がビクリと震えた。

「やっ、やめ…正気かっ、手前?」
「凄い気持ちよさそうじゃない、シズちゃん。どうして欲しい?」
「しゃ、喋ん…なっ! 響く! は、放せっって…ふあっ!あ!」
「そんな大きなよがり声上げないでよ。他のお客さんが気づくでしょ?」
「………ん!」

 静雄は慌てて口を両手で塞ぐ。映画館での話し声は小声でも結構響くが、さすがによがり声はしゃれにならない。
「よせって…こんなっ…汚ぇだ…ろ?」
「そんな事考えたら、セックスなんかできないよ」

 臨也は喉の奥で嗤うと、一層静雄のものを責め立てる。
 しきりに動く臨也の頭や舌の紅さを見ていたくなくて、目をそらすと、幽が彼女と抱き合ってるのが映る。
  キスし合いながら、服を脱がせ合っている。
 目を硬く瞑っても快感から逃れようがない。音からも声からも逃げられない。

『愛してる』
 幽の荒い息遣いと、服をたくし上げる音。臨也の立てる水音。刺激してくる細い指先。
「シズちゃん…」
 臨也の声も興奮している。それが静雄の頭を狂わせていく。まるで二人に同時に抱かれているような感覚に囚われる。

(冗談じゃねぇ)

 否定しようとした。心だけは抵抗するのだが、身体がまるで言う事を効かない。初めての経験になす術もなく流される。
「シズちゃんて、ホントいい顔するよね…」
 臨也に観賞されてる。余裕綽々なのが憎らしい。
(チッ、髪の毛引っ掴んで抜いてやる)
 翻弄されているのが悔しくて、臨也の頭を掴んだ瞬間、敏感な部分を甘噛みされた。

「あっ…んんっ!」

 鋭い痛みとそれの裏返しのきつい程の甘さに、静雄は耐え切れない。手はただわななきながら、臨也の頭を掴んで震えた。

 

 

「へぇ、一杯出たよね。シズちゃん、溜まってた?」
「うーるーせー…死ね、ノミ蟲」

 ぐったりした静雄を見下ろしながら、臨也は嗤っている。
 反対に静雄は不機嫌の塊だった。紅潮した顔を見られたくなくて、腕を顔にかざす。

(チクショー、何でこいつに?)
 下半身の熱が収まってくると、今度は頭が熱を帯びてくる。
(殺す、ぜってー殺す!)
 殴らないと全身の細胞が狂い出しそうだ。

臨也は静雄の震えている拳と血管の浮き出始めたこめかみを冷静に見つめた。
(怒れ。もっと狂えばいい)
一つほくそ笑むと、そ知らぬ顔で呟いた。


「せっかく、気持ちよくさせてあげたのに」
「抜かせ、最悪だ。男相手でよくこんな事できるな!」
「そう?大した事じゃないさ、こんなの。俺、うまかったろ?皆、褒めてくれる」
「…皆?」
「俺だって、シズちゃんが初めての男って訳じゃないさ。童貞なんかとっくの昔に捨てちゃったし。だって何せ、顔いいから」
「…フン」

 自慢げに笑う臨也に静雄は苛立った。嫌な顔で笑う奴だ。
 新羅によれば、臨也は中学の頃、既に池袋の闇に顔を出していたそうだ。
 だから、臨也にとればその闇の住人と戯れる事も気安いに違いない。この男は貞節や道徳など片腹痛いに決まってる。
 でなければ、他人とはいえ、人をあんなにひどく弄べるものか。

 静雄が好きな奴としかしないと言ったからこんな事をしたのだ。
 いつもの遊びの延長。悪ふざけの一つ。
 ただ、からかって貶めたいだけ。
 静雄の嘘を弄ぶ材料にしただけだ。

(そういう男と俺は…っ!)

 目の眩む程の怒りがこみ上げてくる。身体が止まらない。脳が命じる。
 壊せ。目の前の相手を叩き潰せ。完全沈黙するまで殴打し、簀巻きにして、河川に投棄しろ。
 体が戦慄く。どうにも抑えられない。拳を固め、振り上げる。
「いーざーやー! 手前、ぶっ殺す!許さねぇ〜!」


 刹那
「幽君が見てるよ」
 臨也が低く呟いた。

 

「……っ!」
 急ブレーキを踏んだように、静雄の身体が固まる。絶望的な思いでスクリーンに向き直った。
幽はまだ彼女を抱きしめたままだ。時折、必死で切なげなまなざしをカメラが捕らえる。静雄に突きつけてくる。

(幽…っ!)

 臨也を殺すのは簡単だ。侮辱された。汚された。街中なら躊躇しない。
 でも、ここでは絶対に出来ない。静雄が逮捕されれば幽に降りかかるスキャンダルは想像を絶する。
 殺人者の兄。公開直前のプレミア上映中に殺人を犯した。
 静雄が過去の臨也の所業を並べようが、裁判で無罪になろうが、マスコミの標的は幽だ。
 そうなれば、幽の芸能生活は終わってしまう。


「解ってるよねぇ、シズちゃん?いくら頭の悪い君だって」
 臨也は心から愉しそうに囁いた。
「臨也、手前…っ。手前って奴は…!」
 静雄は怒りの余り震える。こんなに腹が煮えくり返った事はない。思わず臨也の胸倉を掴む。

「手前っ!手前はっ…!幽を人質に取りやがったな!
 俺が何も出来ないと踏んで、こんな…っ! こんな事っ!
 俺は手前を許さねぇ! 幽をこんな事にっ!幽の映画を…!」

 臨也は幸せそうに笑った。
「そうだよ、バカなシズちゃん。やっと気づいた?
 シズちゃんの暴力を押さえ込む為に道具も人数も要らない。
 状況さえ作れば、君は俺に何も出来ない。指一本触れられない。

 どうぞ、殴っていいよ? でも、手加減の出来ないシズちゃんに俺を殺さないなんて事できるかな?
 お望みなら紳士的に口喧嘩でもしようか?君の頭は爆発寸前の火山みたいで、ろくに呂律も回らないみたいだけど」
 臨也は目を細めて、心から静雄の表情を愉しんだ。


 ああ、シズちゃん。やっとこの瞬間が来たよ。観たかった。ずっと見たかったんだ、シズちゃんのそういう顔。
 怒り狂ってるのに手も足も出ない。動けない。
 悔しくてぶち切れそうなのに、身動き取れないのを俺に思い知らされるその瞬間をね。

 本当にかわいい。かわいいよ、シズちゃん。

 映画なんか、これに比べたら全くつまんないね。
 この生きた人間の、この荒々しい息遣い、熱気、悔しさ、憤り、怒りと敗北感に比べたら、演技は何処までも演技でしかない。
 まるで薄っぺらさ。何処の誰がシズちゃんみたいな顔を見せてくれるっていうんだ。
 ホントにステキだよ、シズちゃん。君は最高だね。

 歯軋りして振るえている静雄を、臨也は内心うっとりして愉しみつつ、先を続ける。
 静雄の背中を突き飛ばす為に。
(確かに最低の下種だな)
 と、思いつつ、これだからこの趣味はやめられない。


「悔しいでしょ、シズちゃん? なら、俺に暴力をふるう手が一つだけない事もないよ?」

 臨也の意外な一言に静雄はグイと顔を上げる。
「どういう意味だ?」
 静雄の目つきは飢えた狼そのものだ。
「教えろ!」
 容赦なく臨也をペアシートに胸倉を掴んで押し倒す。激昂したいい表情だ。臨也は微笑む。

「暴走族の私刑のやり方を知ってるかい?
 大抵は普通に皆で殴る蹴るなんだけどさ。おいたをした奴が男でも綺麗な顔をしてんなら、レイプするんだって。
 どうせ痛めつけるなら拳が痛むより、気持ちがいい方がいいよね」

 静雄は虚を突かれた。瞬きする。考えた事すらない。
 普段、標識を武器にし、自販機を投げるのがケンカと信じてる彼にとって、全く意外な「暴力」だった。

「そりゃ、違うだろ、ノミ蟲? 俺はただ手前の顔を粉砕する方法を聞いてるんだよ」
「バカだな、シズちゃん。俺が苦痛を感じるのが見たいんだろ?味あわせたいんだろ?
 男同士で『強姦罪』は日本じゃ適用されないんだよ。男同士でそんな事をするという概念がないのさ。

 だから、シズちゃんが俺に暴行したって、見た目じゃ判らない。俺が訴えない限りね。バレやしない、誰にも。
 俺もそんな男として情けない事、警察に訴えるのは御免だな。
 何せ調書取られたり、裁判でどんな事をされたか証言しないといけないだからさ。感じたか、感じなかったかすらね」


「…………」
 静雄は心底怪訝な顔をした。一体、臨也は何を言ってるのだろう。どう考えてもレイプしろと唆している。
 気でも狂ってるんだろうか。静雄は臨也を真正面から見下ろした。

臨也は昔からおかしかった。人を誑かし、騙し、唆し、本人が最も見たくない最悪なものを暴きたて、吐き出させる。
 臨也はいつもそれを見たがった。心から面白がった。
『羊達の沈黙』のレクター博士のように、人間の一番醜悪で腐ったおぞましい部分に触れたがるのだ。

(こいつは俺を引きずり堕としたいだけだ。自分の所まで)

 だったら、レイプなんかしなければいい。臨也を突き飛ばし、ののしって拒否すればいい。
そして、映画館から放り出してやるのだ。振り上げた拳の行き所はないが、殺人だけは回避できる。



 だが、それは出来ない。
 静雄の中に何処を探しても、臨也に背を向けるという選択肢はなかった。ケンカを売られて、一度も買わなかった試しはない。
 もし、それが出来るなら、今、池袋最強の男はここにいない。
 こんな身体になる前に自分を止められた。怒りを制御できた。
 人から愛される人生を諦める事態にもなってないだろう。
 臨也を叩きのめす。怒りのやり場になってもらう。
 何より、臨也は幽を人質に取った。
 それが絶対に許せない。
 どうしても。


(しかし)

 何だって、こんな事をする? 仇敵にレイプされたがる?
 静雄を貶めるなら、自分を供物にする必要などない。いくらでも臨也なら卑劣な方法を思いつくだろう。
 解らない。どうだっていい。頭が煮える。ムカつく。
 未だかつて、これ程芯から怒った事はない。頭の中が真っ白になりそうだ。
 自分の中で煮え滾ってるものを全部外に出さない限り終わらない。
 でないと、自分自身を壊してしまいそうだ。

「お望み通り壊してやるよ、ギタギタにな」
 静雄は臨也の喉元に両手を置いた。
「犯されまくって、逝っちまいな、臨也君よぉ」
「好きにしなよ。別にこんなの慣れてるからさ」
 臨也は嗤っている。

『俺だって、シズちゃんが初めての男って訳じゃないさ』
(同じだ)
 さっきの投げやりな臨也の笑顔と同じ。からっぽの笑顔。
 余りの苦痛から逃れる為に、何一つ感情を放り込めなくなってポカリと開いた空虚。臨也が振りまく闇とは別種の真っ黒な穴。

(レイプ…されたのか、昔?)

 直感的に静雄は悟る。
 臨也がいくら頭がよくて、要領がよくて、立ち回りがうまくても、東京には予想を上回る人外の外道がいる。
 臨也の得意な理屈や道理が何一つ通用しない相手は、静雄に限った事ではない。
 悪意に満ち、突然脈略なく襲い掛かり、相手を食い散らす人でなしは確かにいる。
 臨也が中学の頃から、その闇に踏み込んだのなら尚更。


 そして、臨也が奴等と似た理屈や言葉を踏み越える静雄に出会ったなら、それだけで過去の傷を抉ってる事になる。
 だから、こんな事をするのか?
 自分の傷をわざわざ抉れと。血しぶきを浴びろと。
 こんな状況をお膳立てして。幽を人質に取ってまで、静雄の理性が失わせる程怒らせて。


(俺は俺自身が大嫌いだ。誰にも愛されてはいけないと自分に箍を嵌めた。
 けど…けど、臨也、手前はよ。人間が好きだって言うくせによ。そん中に手前は入ってるのか? 自分自身をどう思ってんだ?
 命だけ守っても、自分自身を大切にする気は全然ねぇじゃねぇか)


 臨也が獣どもに食われたのは自業自得だ。同情はしない。
 だが、それでも『人ラブ!』と叫び続ける臨也に、静雄は何とも言えない切ない奇妙な感情を抱いた。
 臨也の顔が悲しかった。

(バカだ、お前は)

 だからこそ、許せねぇ、そういうお前が!


 臨也はふと静雄の顔が変化したのに気づいた。
 確かに激怒している。キレる程熱い。
 でも、何か違う。まるで詰問するような、責めるような目。

(何でそんな目で見るんだ? やめてよ、シズちゃ…)

 チラリと思考が揺らめいた時、嵐のように静雄が襲い掛かった。

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