殆どよろめき、漂うような足取りで、アルフォンスは住み慣れた家の中を歩き回った。
 兄、母、自分。その全てに大人でも耐えきれないショックを受けたせいでもあったが、魂だけの存在に〔失神〕という救いなど許されてはいない。
 それは同時に、今後自分がどんな状態で生きていくのか、とことん教育される始まりでもあった。
 身長も体重も大幅に変わっている。視界も10歳の子供が突然大型トラックに乗せられたようなもので、勘が掴めない。でかすぎる体はゴチゴチと壁や柱に当たり、頭が敷居につかえるのは毎度の事。ただ歩くだけでも大変で、何処まで足を上げ下げしていいのか解らない。早くエドの手当をしないとと、気ばかり焦って足が縺れた。
 ただ歩くつもりが、勢いをつけすぎて床を踏み破り、用心して足を下ろせば、距離が足らずにひっくり返る。
  そのたび、ガシャーン!と耳をつんざかんばかりの音に、脳天をかち割られるようなショックを受けた。敏感になりすぎた聴覚は制御がなかなか効かず、まるで鐘の中にいるようだ。鎧の中で籠もった音はいつまでも跳ね回り、反響し続けて目眩がする。
  気が狂いそうで、耳を塞ぎたいが、耳がない。体内で響き続ける音にただ我慢する他なかった。
  手を壁につけば音はするから、確かに接触している事は解るのだが、力の入れ加減が解らず、触れているのか押しているのかそれすらも見当がつかない。壁にヒビが入って、幾度も自己嫌悪に落ち込んだ。
 生物は皮膚で、髪で、粘膜で外界を知る。何気なく動く時、どれ程の情報量がなだれ込み、脳がそれを処理しているか、いちいち自覚して生きている者など皆無だろう。だから、目、耳など、その感覚一つでも、大切さは失って初めて解るのだ。人は真の闇に迷い込んだだけで、パニックに襲われる。
 アルも同じだ。見えて、聞こえるだけ。
「怖い…怖いよぉ」
 目眩がした。足が震えた。遂に転びすぎて、四つん這いに這った。
「誰か、助けて…」
 本で読んだ『実験』を思い出した。全身に防護服を着せ、ゴーグルをつけ、耳栓をし、可能な限り、外界と接触を断った状態に人間を長期間置くとどうなるか。答えは簡単だ。それらを全て断たれた時、生物は正気を保ってはいられない。極めて暴力的になるか、発狂して死んでいく。
(僕もそうなるのかな)
 うずくまってしまいたかった。
 膝を抱え、目も耳も塞ぎ、何もかも否定して、ある筈もない救いが来るまで、自分の中に閉じこもってしまいたかった。  
「助けて…兄さん…」
(…兄さん?)
 駄目だ。できない。アルフォンスは這うように立ち上がった。
 早く戻らねば、兄が死んでしまう。
 兄は命を賭けた。どんな形だろうと、彼をこの世に連れ戻した。
 その兄を見捨てる事なんてできない。
 今、自分の感情に溺れて兄を喪えば、狂うよりもっとひどい事になる。
「兄さん…兄さん…」
 呪文のようにアルは唱え続けた。血印がまだ乾ききっていない。後から思えば、鎧に、つまり、この世に定着するかしないか無意識に思い乱れていたのだろう。術者の印がいかに強力であろうと、本人の『生きたい』という強い意志、もしくは何か強烈な執着がなければ、不安定な魂が留まれる訳はない。確かに今のアルを支配していたのは『生きていたい』という気持ちではなかった。
 兄を救う。
 いや、兄といたいという、ただそれだけの単純で真摯な想いだった。
 ようやく自分の部屋に辿り着く。だが、扉が狭い。無理に入ろうとすると、鎧とドアが擦れてもの凄い軋みを上げた。
(後で錬金術で直せばいい)
 アルはドアが壊れるのも構わず、部屋に転がり込んだ。ひどい船酔いを起こした人間のように、バランスが取れないままベッドに辿り着く。ほんの少しだけホッとして、改めて部屋を見回した。部屋中が小さく見えた。つい昼まではむしろ広すぎると思っていた部屋が。
(僕が大きく…なったんだ)
 その事実から来る痛みを無理矢理引き剥がし、シーツを抱えた。幸い、修業時代以前から生傷の絶えない兄を治療する為、薬箱も部屋にある。手元の不確かな心配もあって、薬箱をシーツで包むと、腰に大雑把に巻き付けた。これならうっかり落とす事もないだろう。
 溺れかかった人間が浮島にしがみ着くような有様で、アルはようやくエドの元に戻った。
 時計を見ると、自分が感じた程にも時間は大して経過していない。魂だけになって、時間の感覚を失ったのか、ただ焦っていたのか解らない。とりあえず安堵する。
「兄さん?」
 殆ど失神しているらしく返事はない。エドの体は不自然な程白く、ガチガチと震えている。全身から冷や汗が流れ、呼吸も荒い。
(いけない…失血性ショックだ)
 人体錬成を行うには、相当な医学や生理的知識も必要だ。貧弱な家庭用薬品しかなくても、応急手当なら充分出来る。
 10歳の子供のままならば。
 アルは先刻、エドに食い込んだ太い自分の指を見下ろした。止血や消毒など、繊細な作業が出来るだろうか。まともに歩く事さえままならない自分に。
「う…」
 エドが小さなうめき声を上げた。その辛そうな声がアルを突き動かす。迷っている暇はない。ここにもう神様はいないのだ。自分の唯一自由になる視覚と聴覚(これも未だに暴れ馬のようにアルを翻弄していたが)を精一杯研ぎ澄ます。エドを包む空気と熱のようなものを乱さないように手を動かし始めた。
 空気のように見えるものはエドのオーラだろうかと、ぼんやり考える。そういえば、部屋中の物が以前と違って見えた。
  木製、金属製、ガラス。物質や年月によって、それぞれ物質を覆う何か説明できないものが見える。それが何か知らない。ただ、それを乱さなければ壊さないでいられる。それらが物の本質なのか解らないが、魂を剥き出しにして生きていく事になる自分の新しい基準となるのだとは、漫然と理解し始めていた。
 手の中でパシンと傷薬のビンにヒビが入った。
(いけない、集中しなきゃ)
 アルは何とか応急手当を終えると、エドを抱き上げた。
 隣家のロックベル家のピナコ婆は優れた義肢工だ。義肢工は外科医の免状も持っている。彼女なら兄を救えるかも知れない。他の医者は駄 目だ。距離もあるし、田舎はよそ者にうるさい。血塗れの少年を抱えた見知らぬ鎧姿の大男を追い出すかも知れないし、余計な詮索や説得で時間を食うだけだろう。
『そんな…何で!!兄さんの理論は完璧だった筈だ!!』
 一瞬だけ、母の残骸へ振り返る。
『ああ、理論上では間違っちゃいなかった…』
 兄のあの顔。絶望しきった声。
『間違ってたのは、俺達だ…』
 等価交換。錬金術師が信奉する冷たい方程式。どんな物質も同じ代価で再構築できる。
 だが、それでもこの世には何物にも代え難い唯一つの物が確かにあるのだ。それが生命の根幹をなし、流れを作っているものである。
  かけがえのないもの。彼らの母親の心。それと交換できる物質など、ある筈もなかったのに。
 やってはいけない。
『駄目って言ったでしょ』
 いたずらすると、軽く窘め、その後笑っていた母。
 駄目。
 ただ、その一言の意味を、あの瞬間まで彼らは遂に悟らなかった。
 母から受けた小さなコツン。師匠から幾度も怒鳴られ、投げ飛ばされた痛み。
 それでも、本当に解りもせず、納得しようともしなかった。
 駄目。
 それがこんな徹底的な結末を迎えるまで。
「……ごめん…ごめん、母さん」
 アルフォンスは呟いた。
「また…戻ってくるから…」
 腕の中のエドワードを抱きしめる。今、この時ほど、兄のぬくもりを恋しいと思った事はない。死者から生者に逃れ、現実にしがみつく為に。
 だが、感じない。何も。
 罪人には何も。
 アルは闇の中へ走り出した。
 これが助ける事も逃げる事も同じ意味だとしても、それでも走らずにはいられなかった。

 

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