マナはふと顔を上げ、にっこりと笑った。
 アレンがこっくりこっくりと船を漕いでいる。クッキーを食べたとはいえ、飢えは相当なものだったのだろう。あれから、アレンは子狐どころか子狼のような食欲を発揮した。だが、満腹になると、子供らしい無防備さで瞼をトロンとさせている。マナにつき合おうと必死で目を開けようとしていたが、それももう限界だった。
 時計などこの納屋にはなかったが、五歳程度の子供には多分とんでもない時間だろう。
「王は玉座に。王子様はベッドに、か」
 マナは呟いて、自分の寝床を振り返った。子供とはいえ、シングルに二人は無理だ。アレンの寝床を作るために立ち上がる。

(…いい匂い)

 アレンはぼんやりと思った。秋の牧草地の匂い。お日様の匂い。香ばしい麦と牧場の匂い。そこに雨が降っている。バサバサ、ガサガサ…。
(……雨?)
 今は冬なのに。アレンは驚いて、目が覚めた。まだ眠くて頭がはっきりしない。壁に凭れて、毛布に包まれていた。こんなにお腹が一杯で温かくて幸せで満ち足りた気分など、生まれて初めてだった。見慣れぬ 天井にゆっくりと記憶をたぐり寄せる。
「…マナァ?」
「ああ、ごめん。起こしちゃったかい?」
 声の主は大きな牧草の山を抱えた向こうから響いた。黄金色の干し草の下に、長い足が二本にょっきりと伸びている姿が何だかおかしい。
 マナは大きな干し草の山をこしらえていた。手で膨らみを確かめながら、何度も草を足していく。

「何してるの?」
「さぁ、何だと思う?」
 アレンは草の山を見て、小首を傾げた。古いシーツと枕。
「ベッド! これ、ベッドだ! ベッドだよね、マナ!」
「そうだよ、アレン。僕らのベッドだ!」
「わーっ、凄い! 小鳥みたい!」

 思わずアレンは叫んでピョンピョン跳ねた。馬達がびっくりして、鼻を鳴らす。マナが唇に指を立てると、アレンは慌てて口を両手で塞いだが、興奮は冷めなかった。
 孤児院でたらい回しにされる事は自分のベッドの場所を教えられる事だった。墓石のように固いマットと擦り切れた毛布。一度も中を詰め替えた事などない虫の湧いた藁布団。殆ど中身のない私物の入った袋をその上にポンと置いて、そこに座り溜息をつくのが、アレンのお定まりの儀式だった。
 歓迎されない場所であろうが、そこがアレンに許された『自分の場所』だった。どれも同じ灰色の天井、同じベッド。雑居房と同じ匂いの部屋。そこに座って、部屋の中を一通 り見回し、ここにはいつまでいられるのか、次は何処なのか、と、ぼんやりと考えていた。五歳ならそろそろティミーと呼ばれる、あの極めて死亡率の高い煙突掃除夫に売られると予感めいたものを感じながら。
 だから『ベッドを作る』など全く初めてだった。しかもこんなふかふかの草の上でなんて!
 そんなものに本当に寝るなんて考えた事もなかった。孤児院では何処でも冷たい漆喰や石造りだし、庭も石ころだらけの踏みしめられた剥き出しの土で、貧弱な雑草が辛うじて生えているだけの空間でしかなかった。塀の向こうに広がる柔らかそうなクローバーの野原に、アレンはどれだけ憧れた事だろう。
 だが、シスター達はそんな事は考えるだに、はしたないし、草は濡れているから風邪を引くという意見だった。彼女らが丹精を込めた花壇を踏み荒らす孤児は珍しくなかったから、同類に思われたのだろう。そんな事を考えるのは、何処の罰当たりな部分かと叱られるだけだった。
「僕もする!」
アレンは思わず干し草の山に駆けだした。両手一杯に干し草を抱え、マナの元に持っていく。干し草は少しチクチクして鼻や皮膚をくすぐり、くしゃみが出そうになるが、いい香りだった。
 ごわごわした荷袋のシーツに馬用の毛布をかけると、それでも一応ちゃんとしたベッドに見えた。
「わー!できた、できた!凄いね、マナ!」
 本当は干し草のベッドなんて、崩れるし、チクチクするし、ガサガサうるさいし、明け方には体重で腰だけ下に沈んでしまう困った代物なのだが、マナも思わず微笑み返していた。旅に出れば、屋根があるだけありがたい時が多いのだ。この子がマナを魔法使いと信じているなら、しばらくそれにつき合うのもいいだろう。

(しばらく)

 マナは一瞬、刺すような胸の痛みを感じた。自分はどの位、この子といられるのだろう。この信頼と愛情に輝く瞳も、いずれ憎悪と不信に変わるのだろうか。この可愛い口からおぞましい呪詛を聞く羽目になるのだろうか。駄 目だ。その前に別れてしまわなければ。
(この足さえなかったら!)
 考えまいと、マナはいきなりアレンをお姫様のように両腕で掬い上げた。
「わっ、マナ!?」
 驚くアレンを抱いたままクルクル回し、ポンとベッドに放る。アレンの体はベッドの上で軽く跳ねた。
「わあっ!」
 アレンの顔が喜びに輝いた。本当に何でマナはアレンの心の望みの奥底を読みとってしまえるのだろう。今まで寝た事もない、ふかふかの感触にうっとりと体をベッドに預ける。
 マナはアレンのブーツを脱がせると、毛布をかけてやった。
「じゃ、僕は仕事に行ってくるから、いい子で寝てるんだよ」
「うん」
 マナはゆっくりとアレンの髪の毛を撫でながら、呟いた。
「寝る前のお祈りは?」
「マナは…しないんでしょ?」
「僕だって心の中で神様に語りかける事はあるんだよ」
 だから、アレンもしなさいとはマナは言わなかった。目元が優しくなり、軽く額に口づけられる。アレンはそれがどんな神父の祝福よりも嬉しいと思った。
 マナはバイオリンケースを取り上げた。アレンは尚も掌で弾むベッドの感触を確かめていたが、そのケースに釘付けになる。最初、見た時から何故か目が離せなかった。
「…あのね、マナ」
「うん?」
「一曲だけ弾いて?」
「そうだなぁ…」
 逡巡し『じゃ、少しだけ』とバイオリンを取り上げた。
「もう遅いから静かで短いのがいいんだけど、何かリクエストは?」
 アレンは首を振った。讃美歌しか知らないが、サビの部分だけで曲名も解らない。日曜学校は常に混乱の極地で、シスター達は行儀の悪い孤児達を殆ど見放していたからだ。
 アレンも授業より、机の下からつねったり、蹴ったりする手足から防戦する事で頭が一杯だった。讃美歌は長たらしいお説教の終わりの合図でしかなく、皆と一緒に何となく口をもごもごさせていたに過ぎない。
 笑えなかったアレンには『歌う』事など、思いも寄らぬ事だった。
「じゃ、出会った記念に僕の好きな曲を」
 マナは弓を持って、バイオリンを構える。ピンと空気が張りつめた気がした。

(…あれ?)

 アレンはふと左手を見た。何だか手の甲のアレがビクビクしてる。脈打っているようだ。洗っても、こすっても針で突いても無感覚だった。何故だろう。今までこんな事なかったのに。
 そのほのかな疑問も一瞬で消し飛んだ。


 柔らかなビロードを撫でるように。そよ風に頬や髪を撫でられるように、美しく優しい旋律がアレンを包み込んだ。独奏なのに、キラキラと光がこぼれるような音が折り重なるようにメロディを構築していく。
 息をするのも忘れた。
 瞬きも忘れた。
 深く、静かにバイオリンは謡う。
 優雅で気品に満ちあふれた、何処か切ない囁きのように、アレンを此処でない何処かへ遠く連れていく。


 (……あの曲だ)


 真っ白い鳥の無数の羽ばたきが聞こえる。彼を導いた曲。遠い呼び声。彼を解き放ってくれた旋律。あの楽器。
 あるべきものをあるべき所へ。
 胸が痛いほど疼いた。アレンの目に涙が浮かぶ。


(この人だったんだ)


 聞く前から解っていた気がした。やっぱり、この人だった。ずっと僕を呼んでいたのは。
(よかった…)
 深い安堵と感動に満たされて、アレンはマナを見つめていた。



 曲が終わっても何も言わないアレンにマナは首を傾げた。
「クリスマスソングがよかったかい? 肉屋でさんざん吹いたから、別のがいいと思ったんだけど」
「その曲…何ていうの?」
 アレンはようやく掠れた声を振り絞った。
「僕も知らないんだ。古い古い曲でね。子供の時、旅の楽士から聞いたんだ。僕がバイオリンを志したのは、この曲が弾きたかったからかもなぁ。今でもたまに弾くんだよ。仕事前とか、心を落ち着かせる時にいいんだ」
 アレンは独り頷いた。馬車の中で聞いた時間もその位だった。
「気に入ったら拍手してくれると嬉しいんだけど」
 マナは首を傾げている。アレンは躊躇った。この感情を拍手という喝采と変えたくない。かといって、どうしていいか解らなかった。今は胸が一杯で考えられない。
 もっと時間が経って、自分の気持ちをちゃんと説明できるようになったら話そう。アレンは自分の思いの丈を精一杯込めて呟いた。
「マナ…僕、その曲…好き」
「ありがとう」
 マナは笑うと、アレンの頬にもう一度キスした。階段を下り、雪の中へまた出ていく。
(…マナ)
 アレンは微笑んで、その姿を見送った。
 気がつくと、左手の疼きは跡形もなく消えていた。

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