肉を捌く仕事場は水と血と生肉の匂いが入り混じっていた。タレの材料になるソースやハーブの香りも漂っている。
「商売上手だね、オヤジさん」
 マナはクスクス笑った。肉屋は扉をバタンと閉める。
「お前ェの言う通り、俺は抜け目がないからな。
 さて、時間がないから1分で終わらせるぞ。
 このガキを置いて出てけ。行かねぇなら、手前もグルだ。聖夜の夜を鉄格子の隙間から眺めるがいいや」
 彼を無視して、マナはタレを作っているボールを覗き込んだ。
「へぇ、いい匂いだ。これがおやじさん自慢のタレだね」
「触んな! 誰にも触らせた事ねぇんだ!」
「勿論焼く事もね。あんたの腕は一流だ」
「そうともよ。だが、おだてたって無駄だ」
「じゃあ、何であの小僧さんの袖にはこのタレがついていたのかな」
 肉屋の眉が険しくなった。
「あんたの袖口は綺麗だ。この子もね。
 なのに、何でここにタレをなすりつけたような跡があるんだろうね」
 一瞬、凍るような沈黙が落ちた。
 肉屋の手がそれを消し去ろうと伸びる。が、マナがそれを隠す方が先だった。肉屋はその手を剥がそうとしたが、細いマナの手はビクともしない。
(何でだ?)
 肉屋は当惑した。彼は背後にぶら下がっている牛の半身を軽々と持ち上げられる。なのに、どう見てもなよっちいこの青年の腕は鋼のようだ。
「旅芸人の腕力を甘くみないで欲しいな、オヤジさん」
 マナはにっこりと笑った。毎日、曲芸の修練で筋肉と集中力を鍛え込んである。筋肉があるように見えないのは体質だ。
「じゃ、これは『見られるとマズイ』ものなんだ。フ〜ン、やっぱりあんた知ってたんだね」
「何をだよ!」
 マナは笑顔のまま、肉屋の耳元に囁いた。
「あの小僧さんがもも肉を盗ってたって事」
「……………」
 肉屋の目がマナを射た。
「あんただけが、この丸焼きに触れる。なのに、あの小僧さんの服には染みがあった。  あんたのタレは皮をパリパリにするし、素晴らしい焼き加減で肉汁は滴ってるけど、タレが垂れるなんて不手際はやらない。
 理由は一つ。あの小僧さんが店頭に商品を出す前に肉をいじったんだ」
「……………」
「でも、あんたは小僧さんをかばった。
 抜け目のないあんたが小僧に出し抜かれるなんて事あっちゃいけないからさ。そこへこの子が現れた。あんたはこの子を折檻する事で罪を擦り付けるついでに、あの小僧への見せしめにしたんじゃないのか?」
「……フン」
 肉屋はようやくマナの手を剥がすのを諦めて、マナの目をじっと見つめた。
「なかなかいい推理だが、半分だけ当たりだ。俺はあのガキに出し抜かれたりなんぞしない。俺は知ってたさ。あの手癖の悪いガキが商品をチビチビくすねる位 な。
 だけど…あいつは俺の姉貴の息子だ。バカでも身内はかばわなくちゃいけねぇ。そうだろ?
 そうさ。俺はうるさい姉貴に角を立てる事なく、あいつをこの店からつまみ出す口実を待っていた。そこへひもじい野良猫が目に付いたのさ。今日の俺を見たら、あのガキもちったぁ性根を入れ替えるだろうよ」
 肉屋は鶏の頭を何万羽も肉切り包丁で平然とぶった斬ってきた男の顔で笑った。
「躾を肩代わりさせるのは感心しないね。この子がかわいそうだろう」
「俺にとっちゃ、ねずみも浮浪児も変わんねぇよ。不潔な手やツラをショーウィンドウになすりつけられちゃたまんねぇや。
 まぁ、俺も鬼じゃねぇからな。警察だけは勘弁してやるつもりだったさ」
(それはどうだかな)
 マナは内心肩をすくめた。
「それでどうするね、学者先生?あんたはそんな証拠で俺をどうこう出来るつもりかい?」
「いいや」
 マナは机から手を離した。タレを擦り付けた筈の跡など何処にもない。肉屋は目を剥いた。
「手前!俺をハメやがったな!」
「証人もいないのにかい?」
 マナは笑った。
「僕はあんたの口からこの子が無実だって聞きたかっただけさ。坊や、君は無罪だよ」
 マナは少年に笑いかけた。少年は無表情だ。マナはこの顔をよく知っていた。貧民窟にはこんな表情の人間が多い。怒鳴られ、殴られ、貶められ、嫌疑を掛けられ通 しの毎日で、一つや二つの無実など最早どうでもいい事なのだ。
 だけど、この子はまだそんな顔をするには幼すぎる。こんな顔になるまでに、どんな闇がこの小さな胸に穴を穿いてきたのだろう。
 マナは後悔した。この子を『夕食に招こう』など何と軽率な考えだったのか。その程度でこの子を暖めて癒してやれる訳がない。偽善者に等しい自己満足に浸れるだけだ。この子を本当に癒してやりたいなら覚悟を決めるべきだ。
 例え、自分が他人と暮らせるような人間ではないとしても、この子に手を差し伸べたのは自分の方なのだから責任を取らないといけない。
(なるようになるまでは)
 マナは机に腰掛けた。
「身内を出されると弱いな。
 そこで取引だ。あんた、あの教会に肉を卸したかないかい?」
「な、何だ。藪から棒に」
 肉屋は目を剥いた。
「どうなんだ。卸したくないのかい?」
「そ、そりゃあ、できりゃあ。しかし、あそこは昔っからヨセフ商会出入りで…」
 教会は街の中心だ。婦人会主催のパーティや感謝祭など、街ぐるみの様々な催し物が行われる。そこに肉や卵を卸せるとなれば儲けはデカい。
 だが、街一番で老舗のヨセフ商会が御用達だった。とても、一介の業者が入り込める余地はない。
「みんなの前でこの子にちゃんと謝って、勘違いだと公表してほしい。そしたら、次の…そうだな。復活祭なんてどうだい?
 その後、続けられるかどうかはあんたの才覚次第だけどね」
「ふざけんな!」
 思わず肉屋は叫んだが、マナはにこにこ笑っているばかりだ。肉屋は毒気を抜かれて、彼を見つめ直した。

 

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