子供にとって、その頃、一番『立派な人』は神父だった。
 孤児院の多くが教会付きというせいも多かったのだろう。孤児院では何かにつけて『主は恵みたもう』と聖句が繰り返される。
 教会のステンドガラスや礼拝堂は薄汚い孤児院に比べると、同じ薄暗さでも、美しく不可侵な領域に思え、そこに仕える敬虔な神父は不可侵の存在に見えた。
 子供は赤子の頃、教会の石段だか、祭壇だか、空の聖水鉢だかに捨てられていて(とにかく孤児院の帳簿にはそう書いてあったと保母の一人が教えてくれた)それ以来、あちこちの孤児院にたらい回しにされてきた。主に異形の左手と光の加減で色変わりするする瞳が原因だ。
 まだ偏見と差別が根強かった時代である。保母や監督官から頭ごなしに叩きのめされ、反省室という名の小部屋に理由なく(多分、目障りで遠ざけたいという一心からだったのだろう)放り込まれたが、神父達は彼を一様に無視した。
 孤児院の経営者たる神父達はお気に入りの孤児達には慈悲深く声をかけ、頭を撫でてやったが、アレンの前だけは素通 りした。保母達と同じように病気が移ると思いこんでいた。反省室に閉じ込められた陰気な子供と目が合っても、只の一度も気に止めてくれなかった。
 だけど、それは当然だと思っていた。あんな綺麗な世界に住む美しい人達が、自分に触れたいと思う訳がないのだから。
 その彼らの長が(きらびやかな服装と静かな物腰から、子供心にもその司祭が余程エライ人物だとすぐ解った)マナの手に向かって、崇拝の接吻を行ったのである。
 だから、今、眼前に座っている男にどう接していいか解らなかった。
 保母が子供達に話してくれたアーサー王物語に出てくる伝説の魔法使いマーリンなのか。それとも、ツバメと王子の心臓を持って天に昇っていった天使なのか。マッチ売りの少女を抱いてくれたおばあさんなのか。
 だけど、そんな人がいくらか困った顔で座ってるなんておかしい。
 子供は思わず竦み上がった。
(この人を困らせてる!?)
 どうしよう。もし、この人に嫌われたらどうしよう。
 子供は思わず目を瞑った。夢も魔法も解けて、綺麗な服もあったかい暖炉もみんなみんな消えてしまって、 またあの冷たくて汚い路地裏に座っているんだろうか。
 やっぱりそうなんだ。僕に何一ついい事なんて起きる筈がない。孤児院の馬車から逃げ出さず、感化院に送られた方がマシだったのか。



 でも、あの曲を聴いた。
 とても綺麗な曲だった。
 ビロードのようになめらかで、優しくて、手触りがよくて。
 真っ暗な馬車の中で、その曲は傍らに真っ白い鳥が舞い降りてきたように思えた。
 今まで一度もそんな気持ちになった事はなかった。
 だから、どうしても抜け出さずにいられなかたのだ。もっと近くで聞きたくて。
 パイプオルガンの賛美歌よりもずっとずっと美しかったから。



 彼を嫌っている他の子供達は、彼が休憩中の馬車からこっそり降り立っても誰も咎めなかった。大人に言いつけするのが好きな点数稼ぎが監督官に告げ口する頃は、子供は障害物だらけの狭い路地裏に入り込む事が出来た。
 だが、子供を追う御者や監督官のドラ声に怯え、逃げ回ったせいで迷ってしまった。
  曲は只の一度きり聞こえただけで、耳をすませたが夢のように消えた。幻聴だったのかも知れない。
  子供は疲れ切り、お腹を空かせ『邪魔だ』『そこをおどき』と孤児院と変わらぬ 罵声を浴びながら、路地裏の奥へと逃げ込んだ。
 悲しかった。
 孤児院から出ても何も変わらなかった。雪も人々の冷たさも。
 クリスマスだと世間が浮かれているのも別世界の話だった。教会であたたかい物が施されていると同じ浮浪児仲間が話しているのを小耳に挟んだが、彼にとって教会は孤児院と同義語だった。
 孤児院には二度と戻りたくない。彼を決して愛してくれなかった場所には。
 だが、彼の前を素通りする通行人も神父と同じようなものだった。とても綺麗で、手が届かない。
 考えたら、自分が触れたものはあっても、向こうから触れてくれた記憶は殆どなかった。世界は彼にとって余りにも遠かった。ないも同然だった。寒くて、辛い。それだけの世界だった。
 だから、この路地裏で終わるのだと思っていた。浮浪児達からも彼は受け容れてもらえなかった。
 この忌まわしい左手の為に。
 もう一度あの曲を、あの楽器の音を聞きたいと思ったが、もうどんな曲かも忘れてしまった。
 最初から、なかったのだ。そんな美しい音は。
 彼の絶望がそんな幻聴を創り出したのだ。
 だから、目も耳も塞いでじっとしていた。手足の感覚もなくした。終わりが来るのを待っていた。
 だけど、胃の腑だけはそれを許してくれなかった。どうにもお腹が空いて、まるで狼に腹を食い破られるように引きつって、我慢できなくて、気がつくと、ショウウィンドゥの前に立っていた。ハムや肉の丸焼きが窓一杯に並んでいて、子供を誘っていた。
 どうせ手の届かないものだと悟っていなかったら、窓に突進していただろう。
 匂いがたまらなかった。食べる事は出来ないけれど、匂いは勝手に流れてくるんだもの。吸う位 はいいよねとぼんやり思った。
 その瞬間、もの凄い力でショウウィンドゥから引き剥がされた。赤ら顔の大熊が立っていた。幾度となく彼の生涯に現れた監督官達と同じ風貌、体格だった。捕まったんだと思った。孤児院に連れ戻されると思った。
 でも、男は只の肉屋だった。彼を盗人と呼んだ。
 何もしてないのに。
 その言葉は通じなかった。これまで誰にも聞いてもらえなかったように、同じように暴力がふるわれ、同じようにののしられた。
 同じ。
 何もかも同じ事の繰り返し。
 棒の左手が醜いから。
 親だって見捨てたから。
 それを延々と繰り返すだけなのだと、何処に逃げても無駄なんだと思った。悟った。
 その筈だったのに、何で路地裏に引っ込んでいられなかったのだろう。少なくともあそこなら誰の目にも留まらず、殴られずに済んだのに。
 誰に助けを求めても仕方がない。ただ、こらえ続けるしかないと、少しばかり抗って、抗議して、それが生意気だ、鼻持ちならねぇと相手の怒りをかき立てるだけと解っても、訴えた。
(どうして?)
 と、心の中で幼い頃から渦巻いている答を求めて。
(どうして? 何故ただいるだけで許してもらえないの? どうしてこんなに憎まれるの? どうして僕はここにいるの?
 どうして? どうして?)
 それに答が返ってきた試しはない。
 みんなと違う。汚い。気持ち悪い。それだけ。
 だから、もういいと思った。このいつもの儀式もいつか終わる。相手の腕が疲れるまで、じっと我慢していれば頭の上を過ぎていく。
 孤児院でも打ち所が悪くて、動かなくなった子もいたけれど、黙って名簿に線が引かれるだけ。
 僕はもう『外』にいるから、もう名前に線を引かれる事もない。
 僕の名前。
 誰も殆ど呼んでくれなかった僕の名前。
 いつも『お前』とか『こいつ』としか呼ばれなかった。
  代名詞の方が多かった僕の名前。


「…………名前は?」


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