(名前?)
 優しく繰り返される問いに子供はまじまじと青年を見つめた。
「君の名前は? さっき聞き損なっちゃったからね」
「…………アレン」
 子供はたどたどしく呟いた。孤児院から天国の名簿に名前を書き移す為だろう。死ぬ 時にも事務手続きがいるらしい。
「そっか。アレンか。いい名前だね。名字は?覚えてる?」
 アレンは首を振った。多分、孤児院の帳簿や受け渡しの目録にはフルネームで記載されているだろうが、幼いアレンは名字で呼ばれた事が一度もなかった。
 もっとも彼を罰当たりにも聖水鉢に投げ込んだ母親が、ちゃんと『名前』を贈ったか疑わしいが。
「そうか。あのね、アレンはこの街に知り合いとかいる? 帰りたい所とか?」
 アレンは首を振った。そんなものがあった試しなどなかった。
「うん……アレンはお腹まだ空いてるよね? よかったら僕の家に…」
 マナはちょっと天井を見上げ、おどけたように笑った。
「まぁ、お客様はとても招待できるような所じゃないんだけど、でも、もし、アレンがよかったら…本当によかったらだけど、僕の家に来て戴けませんか?そして、クリスマスディナーを御馳走させて下さい」
 アレンはぼんやりとしていた。聞き間違いか、からかわれているんだろうと思った。
「そうだよねぇ。急に僕みたいなお兄さん(……僕、おじさんじゃないからね、まだ)から、僕の家においでって言われたらびっくりするよね。変質者みたいだし」
「ヘンシツシャ?」
 アレンは意味が解らなくて問い返した。
「いや、いいんだ。で、もし、僕の事気に入ってくれたらだけど、僕と一緒にいないかい?
 僕は貧乏だし、旅芸人だから落ち着いた暮らしなんか出来ないけど、アレンといたらきっと楽しいと思うんだ。僕も君も。
 君がイヤになる間だけでいいんだ。一緒に暮らして欲しいんだ。
 ………駄目かな? やっぱり本当のパパとママがいいよね」
 アレンは答えられなかった。
 パパもママも彼の人生では意味のない記号でしかなかった。乾燥した、少しイヤな気分になる響き。
 それよりもマナの言葉に戸惑うばかりだった。


『一緒にいよう』
『きっと楽しい』
 僕といて?
 僕なんかといて?


 嘘だ。そんな訳ない。誰だって伝染病みたいに僕の側にいるのを嫌がった。変な目だとからかわれた。
 人といるのが怖くて、笑えなくなって、喋れなくなって、それがいやらしいと、何考えてるか解らないと、いつもこそこそしてると、また遠ざけられるリストの一つに加わった。
 なのに、どうしてこの人はまるで友達みたいに、昔からの知り合いみたいに、僕に話しかけるんだろう。見たのに。僕の左手を見てるのに『一緒にいて』なんて言えるんだろう。僕の答を待ってるんだろう。
「駄目かな、アレン?僕はこれでも正式に招待してるつもりなんだけど。カードは忘れちゃったけどね。
 緊張してるんだよ、ほら。断られたらどうしようって」
 マナはアレンの前に手を広げ、わざとブルブルと身震いしてみせた。
「……招待を受けたら、空に浮かべるの?」
「え?」
「だって、僕飛んでみたかったんだ。おじ…お兄さん、天使なんでしょ? 僕を迎えに来たんだよね」
「いや、困ったな。僕は本当に只の人間なんだよ。ボールをたくさん放ってみせたり、曲芸したり、後…」
 マナは指先をクルッと回して、アレンの前に突き出した。ポンと小さな造花が花開く。
「こんな事は出来ちゃうけどね」
 マナはウインクした。アレンの目がパチパチと瞬く。わぁと口が喜びと驚きで小さく開いた。
「じゃ、おじ…お兄さん。名簿、持ってないの?」
「マナでいいよ。言いにくいんなら」
 マナは肩をすくめた。
「名簿って何の事?」
「え?…う〜ん、解んない」
 アレンは言葉に詰まった。彼を縛ってきた管理の象徴。記号化。多分、あの世ですら適応される鎖。
 だが、それにまつわる雑多な思考をマナに説明するのは荷が重すぎる。どう答えていいか解らなくて、ありのままに答えた。
「ま、いいや。で、アレンはどうかな?僕といてくれる?僕のうちに来たい?」
 アレンはマナの瞳を見つめた。綺麗な瞳だ。教会で綺麗だと思い続けたステンドグラスや丸天井や礼拝堂など、彼を哀しく魅了し続けたものがすっかり色褪せる程、ずっと、ずっと。
 この瞳をずっと見続けられるんだろうか?
 この優しい手に、もう素通りされる事はないんだろうか?
「アレンの目は綺麗だね。光の加減でクルクル変わるよ。ずっと見ていたいな」
 アレンは驚いた。まるで心を読まれたようだ。この人なら答をくれるだろうか。僕の事を全部解ってくれるんだろうか。
 でも、綺麗なんて言われたのは初めてだった。こんなに顔を近づけられたのも。抱き締められたのも。声を掛けられたのも。心配されたのも。誰かに見てもらったのも。全部。全部。
 何だか胸が詰まった。独りぼっちで、腹に重たい何かを抱え込んだ時の痛みと全然違う。もっと上。胸の奥。そこが切なくて、苦しい。痛くて、痛くて、嬉しい。
 嬉しい。
(これが嬉しいって事なのかな?)
 一度も感じた事のなかった気持ちなのかな?
「……いていいの?」
 アレンは必死に声を絞り出した。
「僕と一緒にいてくれる?」
 マナは笑った。満面の笑みを浮かべて、サッとアレンを抱き上げる。優しく頬にキスした。
「ありがとう、アレン。それこそ僕の望みなんだ」
 マナは空中でアレンをクルクル回してから、床に下ろした。商売道具の中からバイオリンとクラリネットを見比べ、クラリネットを取り上げた。吹いて、リードを調整する。
「あのオヤジさんに少しお礼をしなくちゃな。大道芸人には大道芸人のお礼の仕方があるんだよ、アレン。
 これでもう少し、お客さんを店に呼び込んで上げよう」
 クラリネットは軽快な音を立てた。楽しい明るい曲だ。クリスマスソング。
 アレンは少しだけがっかりした。彼を呼んだあの音ではなかったから。
 でも、音楽はアレンの心を明るくしてくれた。固くなっている心を溶かしてくれるような気がする。
 マナはアレンの目に浮かぶ楽しげな色に気付いて、口元を緩めた。
「さぁ、ここでの用を片づけに行こうか、アレン。そして、ディナーとしゃれこもう。僕はもうお腹ペコペコなんだ」
 マナは立ち上がったが、ああと声を上げた。
「そうだ、あのランプの精におねだりする願いが一つ残ってた」
 マナはアレンにウインクしてみせた。
「とびきりでっかい鳥の丸焼きをもらうのさ」

 

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