「痛い、痛いっ! 痛いですって、師匠!」


 思った通り、乱暴に全身を洗われて、アレンは悲鳴を上げた。マナの手つきと全然違う。でかい手が容赦なく頭皮に食い込み、髪を引っ張られ、抜け落ちそうに揉まれた。背中が赤くなるほど擦られ、皮膚がピリピリする。高級な石鹸も香りを楽しむどころか、泡が眼に入って痛くてたまらない。何度もお湯をぶちまけられ、洗ってもらっているのか、拷問を受けているのか解らなくなってくる。アレンが暴れ続けていると、最初と同じようにクロスは突然やめた。浴槽の縁に腰を下ろす。

「野良猫」

 フンと鼻を鳴らして、アレンを見下ろした。浴室もクロスも水浸しだ。天井からもポタポタと泡や水滴が落ちてくる。とりあえず解放されてアレンはホッとした。包帯は湯に緩んでほどけ、傷口は否応なく石鹸が染みたが、この騒ぎで少しチリチリするだけだ。湯で暖まってくると、血行がよくなったのか、皮膚も指先も痒い。
「よく洗っておけよ。泥跳ねが耳の裏に少しでも残ってれば、今度こそ丸剥けになるまでタワシで洗ってやるからな」
 アレンは慌ててタオルで耳の裏や足指を洗った。

(この人って何でも本気だ)
 豪華なホテル。絹のシャツ。仕立てのいいスーツ。最高の食事。

 だが、クロスからは聖職者より、むしろ軍人の匂いがした。退廃的な外見でも隠しきれない無慈悲な冷酷さが漂う。エクソシストが戦闘を請け負う責務のせいなのだろうか。クロスが神父なのが、未だに納得出来ない。
 マナはバイオリンが得意だったから、貴族の館にすら招かれる事もあり、アレンも多少の貴族と接触する機会を持った。貴族は軍属や政治家が多かったし、中にはトカゲより冷血で寛大さもない人間に少なからず出会ったが、クロスは全く別 次元だ。神の使徒は別人種なのだろうかと思える程、雰囲気も存在感も異なる。
 人間というより、森で出会った山猫の方が近い。素晴らしい毛皮を持ち、闇に潜み、鋼のような筋肉を張りつめ、油断のない琥珀色の獰猛な瞳で、こちらを伺っていた獣に。
 彼らの王のような赤毛の獣が、アレンの傍らで息を殺している。
 そんな風に感じた。

 怯えと好奇心がない交ぜになって、アレンの体は軽く痺れていた。力が抜けて、湯船に身体を遊ばせる。
 湯加減はよく、湯気が優しくアレンの顔を洗った。マナとの生活はタライに湯があれば最高に贅沢で、普段は小川や井戸の水で体を拭くか、河で泳ぐしかなかった。こんな大量 のお湯に浸かるのは本当に久しぶりだ。自分を温める為だけにお湯をこんなに使うなんて贅沢すぎる気がした。泡がパチンと鼻先で弾ける。眼に飛沫が入り、慌てて顔をゴシゴシ擦ると、自分がクロスの前で左手を晒している事に改めて気づいた。

 クロスに拾われて数週間、犯されもしたし、傷の治療で何度も脱がされたりしたのに、全く失念していた。頭が痺れて別 世界にいるようで気が回らなかったのだ。余程、自分の事で一杯一杯だったのだろう。反射的に右手で隠そうとしたが、とても全体は隠せない。上半身と膝で抱き込むような体勢を取ったが、湯船が深すぎて浮力でひっくり返った。しこたま湯を飲み込む。

「何やってんだ、お前は」
 クロスは呆れて呟いた。アレンは咳き込みながら、泡だらけになって俯く。
「何で今更隠す」
「……………」
「癖か?」
「……癖です」
「直せ」
「無理です」
「マナの前じゃやってないだろう。直せ」
「マナは他の人とは…」
「同じだ。できる。直せ」
「でも…」
「逆らうな。克服しろ」
「できません」
「できる、できないの問題じゃない。直せ」
 クロスは煙草に火をつけた。

「お前の左腕はもうトラウマじゃない。武器だ。その眼でアクマと人間の区別はつくかもしれん。
 だが、動作がワンテンポ遅れれば、首を吹き飛ばされるのはお前だ。死にたくなければつまらんトラウマは捨てろ」

 アレンは俯いた。クロスの言葉は解る。だが、12年間の認識は簡単に覆りそうになかった。彼をただ独り受け入れてくれたマナですら、この腕が引き裂いたのだ。そして、被った呪いの強さにアレンは震撼している。会いたくて、ただ会いたくて名を呼んだ、その代償の深さに。
 償えると思ってエクソシストの道を選んだ。だが、アクマの魂を視た事は地獄の底を垣間見た気分だった。本当に彼らを救えるのか。許される日が来るのだろうか、こんな自分にも。
 アレンは左腕を強く押し潰さんばかりに握り締めた。

「つまらなくなんかありません」
「お前が思うほど、世間はお前の事に関心はないんだ。自分を世界の中心だと思うな」
「僕はそんな事…師匠はこの手を持ってないからそんな事言えるんですよっ」
「俺もこんな仮面をつけて、ティムを頭に載せているが、誰からも笑われた事はないぞ」

(そりゃ、師匠に何か言える度胸のある人はないですよ)
 アレンは内心思った。

「確かにお前を見て、目をそらしたり、どうこう言う奴はいるだろう。だが、そんな事は無視しろ。
 どうせ、そいつらは三分後には忘れるか、意識の片隅に追いやってしまう。ジクジクするその傷を眺めているのはお前だけだ、馬鹿弟子」
「それは擦れ違った人の事でしょう? 僕がこの手でどんな目に遭ったか想像できないんですか? ずっと一緒にいたら、きっと僕の事なんか…」
「ずっと一緒にいたら何だ? マナや俺がどーだというんだ?」
「師匠の事、言ってるんじゃないです。他の人達の事…」
「その他の人は何処の他の人だ。名前は?住所は?今すぐそいつを連れてこい」
「無茶言わないで下さい! 孤児院や街の人達です。名前なんかもう忘れてました」
 クロスは鼻で嗤った。

「そいつらはお前の大事な人間か? 身内か? 友人か?しかも名前も忘れただ?
 呆れたな。お前はお前の人生でどうでもいい奴らの視線や噂でうじうじしてるんだ」
 やりこめられてアレンは唇を噛みしめる。何か言い返さないと気が済まない。
「じゃ、じゃあ、師匠は! 師匠は何でそんなへんてこな仮面をつけてるんですか?」

 いきなり湯に沈められた。泡や石鹸水が喉や鼻に入る。苦しくて上がろうとしたが、思い切り頭を鷲掴みにされているので動けない。散々もがき苦しんで、やっと手が離れた。アレンは浴槽にしがみつき、咳をする。

「師匠に対して『へんてこ』とは何たる暴言だ。死にたいか、手前」
「だ、だって…ゴホッ、目立つし。どうしてかなって思う…じゃないですか」

 また問答無用で沈められた。湯船の底まで押さえつけられる。本気で殺されるかもしれない。ほぼ抵抗がなくなるまでクロスは許してくれなかった。意識が朦朧としかけた時、急に引っ張り上げられる。アレンはガハガハと湯を吐きながら、ぐったりと浴槽の縁に寄りかかった。


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