「謝りもしないで弁解か。最低だな、手前は」
 クロスはフンと嗤った。こんな事をしながら、煙草の火は消えていない。アレンはさすがに疲れ切って、煙が流れてきても文句を言う気にもなれなかった。

「礼儀知らずが。自分が言われてイヤな事は他人だって同じ事が解ったか! 俺の仮面 や手前の腕は、肉体的特徴の範疇に入ってないのか、ああ?」
「…入って…ます…」
「はっきり言え!」
「入ってます!」
「じゃ、それでよかろう。デブやハゲを好きな奴もいるんだし、全部『俺』だけしかいない世界というのも気味が悪い。普通 、自分をありのまま見てくれる奴が2,3人もいれば、多すぎる位なんだぞ、アレン。
 この事で二度とグダグダ抜かすようなら、永遠に湯の底に沈めてやるからな!」

 アレンは呼吸困難で痺れた頭で、何とか頷いた。クロスはマナとは違う形だが、自分を受け入れてくれていたのだ。それを今更他人行儀に振る舞ったのだから、怒っても仕方がないだろう。
 叱ってくれたという事は、それなりに大事に思ってくれたのだ。本気で嫌いなら無視して、アレンが痛い目にあうのを見ていればいいのだから。

(乱暴だけど、怖いけど、この人は僕を認めてくれているのだ)

 それだけが胸に染みた。少し目眩がする。アレンは目を瞑った。
 今まで自分の世界はマナだけだった。二人ぼっちで、二人とも呆れるほど孤独で、その事が気にならない程、幸せで歪つで完成された輪の中にいた。


 そして、輪は壊れ、この男が現れた。クロスはアレンと輪を作らないし、作ろうと思ってもいない。二人の視線も意識も全く別 の方向を向いている。だが、アレンが同じ方向を見るのは、何となくクロスは望んでいない気だけはした。では、クロスはアレンの外的宇宙を叩き壊した後、何処へ教え導いていくつもりなのか。それが解らなくて、アレンはひどく心許なかった。
 どうしたらいいかと問うても、そんなもの自分で考えろと手を払いのけられそうで怖い。不安定な浴槽に浮いていると、闇の中で迷子になった気がした。暖かいのに寒い。淋しい。けれど、もう手を引いてくれた背の高い影は何処にもいない。

(マナ…)

 目から涙がまた零れた。悼んでも悼んでも悲しみは消えない。自分はこれから独りで大人になっていくのに、泣いている子供は永遠に胸の底にいる。自分が償わない限り、子供は泣き続けるだろう。


『神様はいるよ…残念ながらね』


 昔、マナはそう言った。絶対に教会に行かなかったマナは神様が存在するのを知っていたが、縋ったりはしなかった。自分が早死にするのを知っていたからかも知れない。確かにアレンがいくら祈っても、神様は助けても、救ってもくれなかった。
 自分で何とかするしかない。神様がくれるのは、その道に至るほんの小さな余地だけだ。だけど、幼い自分にはまだどうしていいか解らない。ずっとこの闇の底で泣いていないといけないのか。彷徨い続けていなければならないのか。

 寒い。寒い。ここはあったかくて、胸が押し潰されるように苦しい。
(誰か…)
 思わず手を伸ばした瞬間、凄い力で引っ張られた。闇が裂ける感覚。光が満ちあふれる。



「バカ野郎!」
 もの凄い声で怒鳴られた。アレンは思わず瞬きする。

「風呂の中で溺れる気か! もう手前は何度助ければ済むんだ! のぼせたなら、早く言え!」
 クロスが眼前で怒鳴っている。腕が引っ張られて痛かった。

「いたんですか、師匠…?」
「寝惚けるな。このガキ! あー、もう俺までびしょ濡れだ。勝手に沈むな、アホゥ!」
「痛い…」
「痛いか。痛いのは生きてる証拠だ。ったく、お前は…」
「痛いです」
 アレンは構わずクロスにギュッと抱きついた。
「痛いです。僕はあなたに助けて欲しいなんて言ってないのに…あなたは誰も救う気なんてないなんて言ってる癖に…」
「……アレン…」


 クロスはアレンの震える肩を見下ろした。罪深い子供。死に怯える寄る辺ない哀れな子供。養父に何をされたのか、それすら知らない淋しい子供。アレンの縋る腕も肩も細かった。余りにか細かった。それでも、この子はその罪の道を往く。
 クロスはアレンの口を荒々しく塞いだ。アレンに導かれるままに、自分も湯船に入る。

「痛いか。じゃ、もっと痛くしてやる。お前にはその方がいいだろうからな」
「……………」
 ギュッと背中を抱くのが返事だった。
 クロスは両手を封じるように、壁に押しつけると、アレンのうなじをきつく噛んだ。


次へ  前へ


うちのマナは神様に縋らない人であって、信心深くないという訳ではないのです。
それはそれとして、19世紀の人は大変信仰深いように思われていますが、階級格差によって信仰心は大分薄れてしまっていました。
クリミア戦争で有名なナイチンゲールが労働階級と知り合って何が驚いたって、彼らが神様を信じてない事だったそうです。
まぁ、貧乏が半端じゃない上、殆ど上に這い上がれる見込みのない人生を送っていれば、神様なんか信じないよねぇ(^_^;)

19世紀を調べるにつけ、アレンがマナに拾ってもらえたのは、途轍もない幸運だったとしか思えない。身分の差なく、母親の全てが必ず1度は子供を亡くすのが当然で、煙突掃除の親方が雇った子供を死なせても、保育園が預かった子供に保険金を掛けて殺しても、医者が貧乏な患者を診る義務はないと主張しても、罪にはならない時代でした。

アレンがマナに感謝するのは、今の時代では考えられないような背景があったのです。
(でも、ディグレは仮想19世紀なんだから、こんなの調べても余り意味ないんだけどね(笑)


連載は後、ちょっとで終わりです。

55 STREET / 0574 W.S.R / STRAWBERRY7 / アレコレネット / モノショップ / ミツケルドット